未成年の自衛官が退職阻止され自殺 |遺族の裁判が結審、7年越し判決へ
先輩からのパワーハラスメントなどに苦しんでいた新人自衛官が退職の意向を認められずに自殺した事件で9月下旬、遺族が国を相手に起こした損害賠償訴訟の最後の口頭弁論があり、原告側が改めて自衛隊の安全配慮義務違反を追及した。5年前の春に提起された裁判はその日の法廷で審理が終結、来年1月に7年越しで一審判決が言い渡されることになる。

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訴えを起こしたのは、札幌のパート従業員・川島五月さん(59)。陸上自衛隊に勤務していた長男の拓巳さん(当時19)を2012年10月に喪い、これに公務災害が認められなかったため国を相手取る訴訟の提起に踏み切った。
先輩のハラスメントなどを苦に自ら命を絶った拓巳さんは、自殺の半年以上前から精神的に追い込まれ、退職を考えるようになっていたという。母親の五月さんも「早く辞めさせなくては」との思いで部隊に直接出向き、何度も息子を連れ帰ろうと試みていた。だが当時の上官らは「貯金を100万円貯めて車の免許を取ってから辞めたほうがいい」などと慰留を続け、結果として最悪の事態を招くことに。失意の五月さんが公務災害の認定を求めると、自衛隊は驚くべきストーリーを仕立て上げて請求を却下した。その言い分は「家族への仕送りが辛くて自殺した」――。
5年前の提訴時、地元・札幌の報道各社は事件を大きく採り上げ、初弁論後の裁判の経過も折に触れて活字や電波で伝えられていた。だが審理は長期化を余儀なくされ、国側がことごとく「のり弁当」状態で提出してくる書証などをめぐる不毛なやり取りが続いた上、双方の証人尋問が1年間近くも続くなどした結果、クライマックスといえる原告本人尋問を傍聴するメディア関係者は数えるほどしかいなくなっていた。本年6月に母親の五月さん自身が証言台に着いた尋問の模様は、新聞もテレビもついに報じていない。
その五月さんは、尋問後の筆者の取材に「うちの事件は氷山のほんの一角だと思う」と話している。どういうことか。
「亡くなった自衛官の遺族の多くが声を上げられずに我慢をしている実態があると思います。年間200人以上が自殺しているじゃないですか。私たちのように声を上げるのはそのうち5件ほど。さらに裁判まで起こすのは1件ほど。みんな我慢するんですよ、自衛隊が蓋をしちゃうから」
知人の紹介で知り合った夫の将さんは、長男の拓巳さんが小学1年生のころに急逝。以後、五月さんは女手一つで2男1女を育て上げた。

苦労を間近で見ていた拓巳さんは「高校を出たら就職する」の言葉通り2011年4月に18歳で陸上自衛隊に入隊。札幌の真駒内駐屯地と胆振地方の安平駐屯地とでそれぞれ3カ月間を過ごし、同年秋に白老駐屯地へ移った。

結果的にそこが最後の職場となったのは、同室の先輩からの理不尽ないじめや組織の退職阻止に心を病んでしまったため。入隊翌年の1月には鬱の疑いで精神科を受診するに到り、母親の五月さんは「一刻も早く辞めさせたい」と部隊を訪ねたが、当時の曹長らは先述の通り「貯金と運転免許のため」と称して慰留を繰り返すばかり。そのころから気の合う同僚に「楽な死に方を探している」などと打ち明けるようになっていた拓巳さんは同年10月、寮の「乾燥室」で変わり果てた姿で見つかった。縊死には制服の長靴の紐が使われていたという。遺族の公務災害申請を審査したのは、労働当局ならぬ自衛隊の内部機関。「実家への仕送りが辛かった」なる架空の理由でそれを退けられた遺族が結果に納得できるはずもなく、2020年4月に裁判提起に到った。
丸5年以上を経た本年9月26日午後、札幌地方裁判所(守山修生裁判長)で18回目になる口頭弁論が設けられ、長く続いた審理が終結した。長男の遺影を手に法廷へ向かった川島五月さんは、弁論後の報告集会でこう語っている。
「昨日はなかなか寝つけず、当時を思い出しては泣き、朝まで仏壇の前で自問自答していました。どんな判決になっても泣かないで聴くように頑張りたいと思います」

原告には母の五月さんに加え、異父妹を含む拓巳さんの弟・妹3人も名を連ねる。
「亡くなった拓巳は19歳。下の子たちも未成年でした。今はみんな成人し、働いています」
各地の自衛隊関係者が注目する一審判決は、来年1月7日に言い渡される。
(小笠原淳)
| 【小笠原 淳 (おがさわら・じゅん)】 ライター。1968年11月生まれ。99年「札幌タイムス」記者。2005年から月刊誌「北方ジャーナル」を中心に執筆。著書に、地元・北海道警察の未発表不祥事を掘り起こした『見えない不祥事――北海道の警察官は、ひき逃げしてもクビにならない』(リーダーズノート出版)がある。札幌市在住。 |















