在学生の自殺事案が公式に被害認定され、事態が明るみに出て以来ようやく一つの区切りを迎えた、北海道立高等看護学院のパワーハラスメント問題。3年前の秋に告発の声を上げた学生らへの賠償(慰藉)も進んでいる現在、そのかたわらで深刻な被害の訴えが何度も退けられ、結果的に一切顧みられずに終わったケースがある。当時者の元学生はこの春伝わった調査結果に憤りを隠さず「改めてがっかりした」と不信感を募らせている。
■パワハラの実態 ―“あの副学院長”が退学強要
10年ほど前に道立看護学院で理不尽なハラスメントに遭い、退学を事実上強要されて看護職の針路を断たれたのは、現在千葉県に住む自営業の男性(31)。パワハラの舞台は、江差ならぬ道東・紋別の看護学院だった。のちに最大のハラスメント加害を認定されて江差看護学院を去った当時の副学院長が、そのころまさに紋別の学院で副学院長を務めていたことがわかっている。一連のパワハラが表面化したのは2021年春のことだが、被害男性が看護学生だった2010年代前半にはすでに深刻なハラスメントが常態化していたといい、その人はこう証言する。
「ぼくらの世代は告発の声を上げる人が出てこなかっただけで、ハラスメントは普通にありました。自殺未遂も知っているだけで2件あり、睡眠薬を呑んだ先輩や学生寮の窓から飛び降りた人などがいましたが、まったく問題にならなかった」
男性は、地元の高校を経て紋別看護学院に入学。卒業年次である3年生の春までは順調に進級できていたが、その年の春に無許可でアルバイトをしていたことを咎められ、1年間の停学処分を受けた。当時の学院では学生のアルバイトには届け出が必要で、当事者の男性自身もこれを怠った非は認めている。とはいえ1年間という休学期間はあまりに長く、また復学直後にルールが緩和されて無許可アルバイトが解禁になったことも男性としては疑問だった。
2013年5月に復学を果たした男性は、早々に北海道外の医療機関から採用内定を獲得する。看護師の夢が具体化し、あとは無事に卒業して国家試験に及第するのみとなったが、卒業目前の12月になって突然、教員たちのハラスメントが始まった。当時の顛末を、男性はこう振り返る。
「道外への就職が、教員たちの気に障ったらしいんです。そのことで執拗に『反省文』を書かされることになりました」
おりしも、紋別から50kmほど離れた町の医療機関で実習が続いていたころのこと。「身勝手な行動への反省」を求められた男性は、毎日の実習終了後にバスで50kmを移動して紋別の学院へ「反省文」を提出、そのたびに書き直しを命じられ、深夜に再び50kmの道のりをバスで戻る生活を余儀なくされた。
どのように書き直しても教員らは満足せず、再提出に継ぐ再提出。実習のかたわら毎夜100kmの移動を繰り返した男性は2週間で根を上げ、単位を落とす結果となった。実習の担当教員に「限界です」と伝えると、「休んでもいいけど精神科でも受診したら」と教員。助言に従って精神科の診察を受けると「ほんとに行ったんだ」と笑われた。
別の教員はレポートに「意味不明」「時間の無駄」「教える価値がない」などのコメントを書きつけ、学習内容への質問には事前の「予約」を求めてきた。「予約」時間外には何を訊いても答えてもらえず、時間内に教員室を訪ねても「前と同じ」の一言で済まされた。また別の教員は「私たちとは合わないと思う」と退学を促してきた。
母親との三者面談では、副学院長らが「1年生のころから理解のできない子だと思っていた」と言い放ち、やはりあからさまに退学を強要してきた。「やめたくない」と抵抗すると他校への編入を勧められ、男性は絶句するしかなかったという。追い込まれた結果、中退を受け入れたのは2014年の1月。卒業まで僅か3カ月を残しての不本意な決断だった。
「10代後半から20代前半までの一番充実した時間を、あっさり奪われた。あの4年間を取り戻せるなら、やりたいことはいっぱいありました」
■被害の訴え無視した道庁の非道
失意の男性は当時のバイト先の伝手で首都圏の飲食店に就職、医療業界とは違う世界で生きていくことになる。東京都内の店舗で経験を積み、最終的には独立を目指して修業を重ねる日々。そんな中、不意に学生時代の無念を思い起こさせる出来事が起きた。退学から7年ほどを経た2021年春、道立看護学院のハラスメントが一斉に報道されたのだ。
これまで本サイトなどが報じてきた通り、当時の在学生の告発を受けた北海道は世論に押される形で第三者調査委員会を設置、結果的に53件のハラスメントを認定している。調査が始まるころ、紋別で退学強要の被害に遭った男性もその動きを知り、道に調査の要望を寄せることを決意した。
ところが道はその訴えに耳を傾けず、男性の事案は被害認定に到っていない。それどころか、そもそも第三者調査の対象にならなかった。理由は「調査に必要な情報」が不足しているため。21年11月に結果の通知(*下の画像)を受けた男性は、煮え切らぬ思いを抱えて弁護士に相談を寄せる。なんらかの形で被害を認めさせることはできないか――。だが1カ月ほどの検討を経て弁護士が出した結論は「被害から時間が経ち過ぎている」。あくる年、つまり22年の1月、男性は被害回復をほぼ完全に諦めることとなった。
一転、再調査の可能性が浮上したのは、この半年ほど後のことだ。道議会で昨年6月、のちに被害認定に到る自殺事案とともに男性のケースが俎上に載り、地元議員が道の担当課に改めて調査を検討するよう迫ったのだ。ほどなく再調査が正式決定、同年8月に東京都内で聴き取りが行なわれ、男性は担当職員3人を前に1時間半にわたって被害の実態を訴えた。ところが――。
「それから何カ月経っても、何の連絡も届かないんです」
聴取のあった時期、男性は念願の独立を果たし、千葉県で新規開業の準備に追われていた。第三者ならぬ北海道の担当職員らは形式上男性の都合を確認しつつ、聴取の日時を一方的に決定、会場も有無を言わさず東京都内に設定してきたという。無論のこと交通費は自腹で、多忙のさなかに時間をやりくりしての上京だった。にもかかわらず、それきり道からの連絡が途絶え、調査の進捗がまったく伝わらない。そのまま年が暮れ、業を煮やした男性が担当課に問い合わせを寄せたのは、本年2月。受話器の向こうからは「まもなく報告します」との声しか聴こえてこなかったが、その数日後、地元議会で驚きの事実が明かされる。調査は男性の聴取から2カ月ほど後に終了しており、その後3カ月経ってなお結論がまとまっていなかったのだ。
ようやく当事者のもとに報告が届いたのは、新年度が明けた4月8日。一読、男性は「気を失いそうになった」という。
男性の申告で調査対象となったハラスメント疑い事案は、大きく7件。すでに述べた退学強要や「反省文」書き直し指示などの不適切指導、暴言、指導拒否などで、少なくとも3人の教員が関与していたとされる。調査にあたったのは、これも先述の通り第三者委員会ならぬ道の担当課。つまり一方当事者の管理責任者が自ら調査の主体となったわけだ。結果は、文字通り「気を失いそうな」ものとなった(*下の画像)。
対象7事案のうち、ハラスメントと認められた事案は皆無。「不適切な指導・対応」とされた事案も、僅か2件に留まった。残る5件は不問に付され、しかもそのうち4件は被害事実そのものが確認不能とされた。男性は当時の教員による複数の暴言をひそかに録音しており、その音声データをすべて証拠として提出していたが、あたかもそれらの音声がまったく存在しないかのように暴言の事実が一切認められなかったのだ。また2件だけ認められた「不適切」事案も具体的な賠償の対象にならず、道からの謝罪もないという。根気よく事実を訴え続けた男性にとって、とうてい納得できない結果だった。
「改めてがっかりしました。それに尽きます」
もはやこれ以上の打つ手はなく、被害回復はきっぱり諦めざるを得ない。1つだけ成果が得られたとすれば、当時のハラスメントの背景にあった体質を実感できたことだ。男性は指摘する。
「認定の有無よりも、全体としてお粗末な対応だったことが不満です。何を問い合わせても、まるで結論ありきのような、その場しのぎの説明ばかり。当時の教員たちのハラスメント体質に通じるものがあるんじゃないかと思います」
江差で3年前に起こった告発の声は当初、半年間にわたって担当課に事実上握り潰されていた。苦情を黙殺し続けたのは、ハラスメントの“主犯”である前副学院長の部下だった職員たちだ。彼らは何の咎めも受けず、今も道に籍を置いている。今後の異動で担当課に戻る可能性も皆無ではなく、それどころか一部は現在、看護学院の教壇に立っている。
指摘される「体質」が変わらない限り、悲劇は繰り返される。それを食い止めるには、たとえば過去の加害と真摯に向き合うことだが――。
紋別の男性への対応を知った関係者らは、悲観的にならざるを得ないだろう。
(小笠原淳)
【小笠原 淳 (おがさわら・じゅん)】 ライター。1968年11月生まれ。99年「札幌タイムス」記者。2005年から月刊誌「北方ジャーナル」を中心に執筆。著書に、地元・北海道警察の未発表不祥事を掘り起こした『見えない不祥事――北海道の警察官は、ひき逃げしてもクビにならない』(リーダーズノート出版)がある。札幌市在住。 |