
昨年の参議院選挙あたりから、排外主義や憲法改正に批判的な声を、汚い言葉で罵倒するネット民が急激に増えた。権力批判や原発に慎重な意見を述べる人は、誰彼構わず「左翼」。台湾有事発言で態度を硬化させた中国への配慮を求めると「媚中派」だと決めつけてくる。きっかけを作ったのは平気で虚偽情報を流す参政党である。
こうした連中は自分たちを「保守」あるいは「保守派」だと称しているが、とうてい同意できるものではない。「保守」とは歪んだ愛国心とは別物の概念だからだ。ただ、こうした風潮を招いた責任の一端は、「保守」という言葉の使い方を間違っているマスコミにもある。いや、正確に言うと間違っているのではない。意図的に、右寄りの人たちを「保守」として扱っている可能性が高い。
■1955年の保守=「極右の全体主義と対決」
「保守とは」と質問され、スラスラと答えられる政治家や報道関係者がどれほどいるだろうか?その点についての深い考察を省いて、記事を書く記者や評論家が大半だ。安倍晋三政権以来、新聞・テレビはもちろん、テレビのコメンテーターや評論家も「自民党の保守派」あるいは「党内の保守派」などというおかしな使い方をするケースが増えた。筆者はこれに強い違和感を覚える。
そもそも自民党は保守政党。党内に保守ではない議員がいるはずはない。いたとすれば選挙で公認されないはずだ。正しくは「自民党の右派」もしくは「自民党内のタカ派」だろうが、こうした表記はめっきり減った。原因は、右寄りの連中に対する忖度。この国のマスコミの実態はその程度なのだ。
重ねて述べるが自民党は保守政党だ。1955年、急伸する左派勢力に対抗するため自由党と日本民主党が合流して「自由民主党」が設立された。結党時に綱領と共に示された《党の性格》にはこう記されている。
・わが党は、真の民主主義政党である
わが党は、個人の自由、人格の尊厳及び基本的人権の確保が人類進歩の原動力たることを確信して、これをあくまでも尊重擁護し、階級独裁により国民の自由を奪い、人権を抑圧する共産主義、階級社会主義勢力を排撃する。・わが党は、議会主義政党である
わが党は、主権者たる国民の自由な意思の表明による議会政治を身をもって堅持し発展せしめ、反対党の存在を否定して一国一党の永久政治体制を目ざす極左、極右の全体主義と対決する。
「個人の自由、人格の尊厳及び基本的人権の確保が人類進歩の原動力たることを確信して、これをあくまでも尊重擁護」とある。しかし、高市早苗首相が志向するのは、個人より国家を優先する社会である。高市氏と並んで政権の顔となった小野田紀美経済安保相は、かつてSNSに「卑弥呼の時代から歴史を刻んできた我が国そのものに忠誠を誓っています」と投稿、国家主義者であることを公言している(*下の画像参照)。

まるで戦前の軍部。小野田という政治家は極右以外の何ものでもあるまい。「極右の全体主義と対決する」という自民党結党時の精神はどこへ行ってしまったのか?
■「保守」とは
高市氏が中国を敵視する姿勢は安倍晋三元首相以上に極端だ。台湾有事発言はその象徴である。アメリカ追随で軍事優先の予算を組み、「国益」だの「愛国心」だのという言葉を連発するのも高市氏ら「保守」を自称する人たちの特徴である。戦後80年をかけて守り抜いてきた被爆国であるからこその「非核3原則」まで見直すというのだから、開いた口が塞がらない。これが「保守」であるはずがない。
では、権力と対峙する使命を負った「ジャーナリスト」たちは、「保守とは」という問いにどう答えるのか。知り合いの記者やライターに、質問してみた。
多かったのは、“「天皇制」あるいはそれを含めた「伝統・文化」を守ろうという政治家や概念”という趣旨の答えだった。ただし、一様に考え込む。なぜ考え込むのか聞いてみると、近年「保守を名乗る人たちの言動があまりに過激だからね」と首をかしげる。抱いてきた保守のイメージとは違うものを感じ取っているからに他ならない。それは何か?
ここで、一部だが、回答を寄こしてくれたジャーナリストたちの考えを紹介しておきたい。
【T氏】
いわゆる「保守」は、伝統を重んじ、「家制度」の存続を願う思考、思想文化をさすものとおもいます。
一方、いまの政治の文脈においては、安倍元首相が推進した「アベイズム」的なるもの、具体的には国力強化や、憲法改正、日米同盟の深化などを推進する立場が「保守」というイメージです。
政党の絵図で見れば、参政党、保守党などが、そこからつまみ食いしている状況ではないかと。思想的言辞というより、政策選択の考え方をさしているのではないでしょうか。
マッチョ指向とも評価できるもので、どちらかというと、自らと異なる考えを受け入れ、互いの立場や考えを尊重する、ということはせず、相容れないものは批判する。包摂とは真逆という印象です。
昭和の「保守」政治は、幅広い政治思想を取り込みつつ、最大公約数的な落としどころを探る姿勢が見られました。懐が深かったとも言えると思います。日本国の「家長」のような立ち居振る舞いを意識していた、という印象があります。政治家個人も、自らの思考を押しつけることはせず、いわゆる「和を尊ぶ」政治家が多かったように思います。
【K氏】
「保守」とは、「謙虚さに裏付けられた敬意」だと思う。人間は間違える、ましてや自分は間違える、という自覚がまずある。だから、他者や歴史を重んじる。「自分は正しい」と正義を握りしめて、革命を起こそうとしたり、他者を糾弾したり嘲笑したりする態度とは相いれない。人間は間違えるのだから、間違った伝統や慣習も当然ある。自分はおかしいと感じなくても、それを変えたいという他者の思いにも一理あると考えてみる。保守とはそんな態度のことだと思う。
【I氏】
「保守主義」あるいは「政治における保守」というと、常にエドマンド・バークが参照される。人間の理性を過信するな、急進的な改革は社会も人間性も壊す、風雪に耐えた先人の知恵を大事にせよ――。
そういう教科書的な説明はもういいよ、とうんざりする。革命思想も社会改良主義も消えたいま、こうした左派への対抗軸としての保守主義の定義など、もはや意味をなさないだろう。米国でも欧州でも日本でも、政治的「保守」はもはや何ものの本質を指し示す用語ではなく、リベラルが掲げる多様性やウォーキズム(意識高い系)への憎悪や反動を意味するものでしかなくなっている。
また、日本でいま「保守」とされている右派の高市政権や(高市が後継者を自任する安倍晋三)を批判するために、「本来の保守」を再評価する議論がある。「60点の政治」を目指した大平正芳の懐の深さこそが伝統保守だ、云々。こちらも懐古主義としか言いようがない。保守本流の宏池会全盛時代を懐かしむ声はオールドリベラル(たとえば朝日新聞のロートル政治記者)からも聞かれるが、いったいいつの時代の何の話をしているの?というため息しか出てこない。
不合理に見える伝統や慣習でもとりあえず価値を認め、漸進的に物事を変えていく――そんな政治的保守は果てしない現状追認に傾きかねず、差別もハラスメントもヘイトも人質司法の問題も、目前の人権侵害の解決を望む人たちからすれば、直ちに乗り越えるべきもの以外の何ものでもないだろう。
実態のない「保守」をあえて再考するなら、要は人それぞれバラバラの「何を保守するのか」を議論し、社会として守るべきものを再定位するしかないのだが、物価高と将来不安に苦しむ人がここまでいる現状を見れば、答えはおのずから明らかだろう。エリート主義とアイデンティティ・ポリティクスの陥穽にはまってしまったリベラルが見放され、「保守」政治を本当に人々が望んでいるのであれば、何よりも人々の生活を守ること――その課題に取り組まなければ、保守政治に存在意義などない。
選択的夫婦別姓や女系天皇に反対するのが「伝統」だと勘違いし、富裕層だけが得するアベノミクスの再来を目論みながら、1杯5千円のラーメンを余裕で食べているだの奈良の鹿を蹴っているだのと外国人への敵意を煽り、不満のはけ口をそらす。そんなものは保守政治でもなんでもない。
【Y氏】
保守とは『平和を守る人たち』と考えます。
保守とは、間口が広い、多様で寛容な概念だと思います。決定的に「これ」と言い表す説明はできない、それこそが保守。少なくとも、日の丸を振り回して外国人排斥やLGBT排除を叫び、米国に追従し、核兵器保有や防衛力増強を語ることは保守ではないと思います。
自民党で最も「保守」と言われるのは旧安倍派(清和政策研究会)でしょう。安倍氏がかわいがり、清和研にかつて所属した高市首相もその流れにいると思います。彼ら、そして彼らの支持者は、党内で対極にいる石破茂首相を「リベラル」と攻撃します。ところが石破氏の著書は「保守政治家」。立憲民主党の野田佳彦代表のスローガンは「中道保守」。同党左派の枝野幸男元代表は「保守本流」を自認しています。一方、中曽根康弘元首相は自らを「革新保守」と呼んでいました。保守の概念は間口が広く、一概には言えないのです。
選挙報道で「保守王国」「保革対決」「保守分裂」と新聞表記しますが、この表記は正しくない。「自民王国」「自立対決」などと表記しなければならないといつも感じます。
ところが、今保守と語られるのは、冒頭に挙げたような日の丸を振り回す人たちばかり。彼らは「右翼」ですらないのかもしれません。
私は、保守は「平和な世の中を守っていこうとする人たち」と考えます。地域で子ども会でみんなで子どもを育て、伝統行事を受け継ぎ、故郷の穏やかな生活を守ってきた人たち。彼らが地域の最前線にいる間は、社会に分断はありませんでした。
石破氏が首相退任直前に戦後80年の所感を発表した際、自民党内で「保守」を掲げる人たちは激しく反発しました。少なくとも彼らは保守ではない、そう確信します。
いずれのジャーナリストも、いま流行りの「保守」に胡散臭さを感じ取っているのは確かなようだ。手っ取り早く言えば、近年「保守」とされている政治勢力、あるいは自称する者は「保守にあらず」という見立てである。筆者も同意する。昨今、マスコミや一部の評論家が口にする「保守」は、この国において尊重されるべき「保守」ではない。戦争好きの政治家やコメンテーターらが「保守」であるはずがない。
■「愛国」は自称保守の隠れ家
先人たちは80年前、敗戦を経験し、荒廃した国土の中から立ち上がって奇跡の復興を遂げた。その後の繁栄をもたらしたのは、押し付けであろうとなかろうと、戦争放棄を謳った「日本国憲法」であることは疑う余地がない。80年間、一度も戦争で人を殺さず、そして殺されず、平和を謳歌してきた日本が、この10年余りの間に憲法解釈を変えてまで集団的自衛権の行使容認に舵を切り、政権中枢で核武装の必要性を唱える不埒者まで現れた。“守るべきもの”を間違っている。
天皇制、神社仏閣、城下町・門前町などの町並みといったこの国固有の伝統文化は、いずれも長い年月をかけて形成されてきた私たちの宝だ。大切に守って次代に継承しなければならない。そして、歴代政権や国民が守り抜いてきた「平和」も、80年かけて積み上げられてきたものの一つだろう。古き良きもの、先人たちが積み上げてきたものを守るのが「保守」であるなら、戦争放棄を謳った憲法9条や非核三原則や武器輸出三原則を変えるという高市早苗の考えは保守ではない。
「外国人を排除しろ」「中国は敵だ」「憲法を変えろ」「自衛隊を軍隊と認めろ」「トランプは正しい」「南京大虐殺などなかった」「従軍慰安婦は作り話だ」「国家を尊べ」「国旗損壊は罪だ」――多くのメディアがこうした過激で勇ましい主張を「保守」あるいは「保守色が強い」などと表現する。冗談じゃない。こんな言説を唱える人たちはただの極右。本来の保守とは程遠い存在だ。「エセ保守」と言っても過言ではあるまい。
つい先日、「保守とは」という筆者の質問に答えた政界の重鎮が、静かな口調でこう言った。
「保守にとって一番大切なのは中庸です」
勇ましい言動こそ「保守」だと勘違いしがちな風潮への警鐘と受け取った。「中庸」とは、極端ではなく穏当、片寄らないといった意味だ。そう、「中庸」こそが本来の保守が持つべき姿勢なのだが、過激なだけで中身がない高市や小野田にそれがあるとは思えない。
一代前の五千円札の顔・新渡戸稲造は、世界が認めたその著書『武士道』で、日本人の精神構造=道徳心を海外に知らしめた。その新渡戸が、旧制一高の校長を辞任するにあたって行った演説の最後で紹介したのが、イギリスの文学者サミュエル・ジョンソンの言葉 ―― “Patriotism is the last refuge of a scoundrel.”である。『愛国は悪党の最後の隠れ家』と訳すことができる。自分の悪行を正当化するため、愛国心を利用することを戒めた言葉だと解すべきだ。悪質さで代表的な例が、「お国のため」「国益のため」と言って国民に塗炭の苦しみを強いた、軍部をはじめとする戦前の無能な戦争指導者たちだ。80年後の現在、同じような愚かな政治家たちがいる。彼らは、自分たちを「保守」だと称している。
(中願寺純則)















