出所者雇用600人超|余命2年の社長に人権賞

刑務所を出た人たちを積極的に雇い入れ、北海道・札幌で半世紀以上にわたって再犯防止に取り組んできた建設会社が東京弁護士会の人権賞を受賞することになり、近く関係者が札幌で表彰の場を設ける。社長の小澤輝真さん(46=下の写真)は難病・脊髄小脳変性症で余命2年と宣告され、ここ数年は身体が思うように動かなくなっているが、受賞を機に「これからも一人でも多く、罪を犯した人たちの社会復帰を手伝っていきたい」と、今後の取り組みに意欲を見せている。

■築いた信頼、“塀の中”でも知名度は抜群

東京弁護士会の人権賞を受けるのは、札幌市東区の北洋建設。1973年の創業以来、前科のある人たちを社員として雇用し続けており、これまで受け入れた刑務所出所者などは600人を超える。広告・宣伝に一切費用を使っていないにもかかわらず“塀の中”での知名度は抜群で、各地の刑務所で同社の名を知らない関係者はほとんどいないと言っていい。

今に到るきっかけをつくったのは、創業社長の小澤政洋さん(故人)。刑務所を出た人たちに声をかけたのは、ごく単純に人材不足を解消するためだった。

物心ついたころには家が戦場だったと、政洋さんの長男で現社長の輝真さんは振り返る。
「寮でしょっちゅう従業員の喧嘩があって、それが凄いんですよ。一升瓶バーンって叩き割って刺し合ったりとか…。大怪我した社員のために救急車呼んだら、救急隊員が呆れて『またおたくか』って」

そんな荒くれ者たちも、政洋さんが一喝するとすぐにおとなしくなった。常日頃から「社員は家族」と公言し、取引先や近隣住民から「あんたの所には前科者がいるのか」と中傷されても、政洋さんは出所者の雇用をやめようとしなかった。息子の輝真さんにとって、周りに前科のある人がいるのは当たり前の環境だったという。
「みんな必死で働くから、業界では信頼されていたんです。何よりも、うちは事故が少ない。余計な悩みを抱えながら仕事すると、作業中に気が散るじゃないですか。事故ってそういう時に起きるんですよ」

会社が岐路に立たされたのは、創業から20年ほどが過ぎたころ。一代で社を育て上げた政洋さんが、49歳の若さで急逝した。高校を中退して別の会社に勤めていた輝真さんは、当時17歳。2代目社長を引き受けた母の静江さん(現会長)を支えるため、家業を継ぐことを決意する。待っていたのは、歳の近い先輩社員の下での猛特訓だった。
「厳しかったですよー! 夜中の1時に叩き起こされて『一日も早く現場を覚えろ!』って、朝5時までですから。資材や器具の名前を覚えるところから始まって、何回も足場を組んで…。6時にやっと家に帰って、そこから普通に出勤。現場と営業の両方やって、くたくたで家に帰ったら、また1時に起こされて」

政洋さんが亡くなった時、当時の専務が500万円ほど横領して失踪した。さらにその5年後、別の役員が1,700万円の空手形を切って逃げた。いずれも刑務所経由で雇用した職員ではなく、つまり会社は前科のない社員によって窮地に立たされたわけだ。

当時の従業員は、およそ50人。輝真さんは全員を集めて頭を下げた。来月はどうなるかわからない、給料を払えるうちに辞めてくれ――。「それが、誰も辞めないんですよ! 『会社が大変ならおれたちが頑張る』『どうせほかに行くところもないし』って、前よりも頑張って働いてくれたんです」

取引先も少しずつ大口の仕事を回してくれるようになり、負債は2年あまりで完済できた。当時の元請けは、同情で仕事を発註してきたわけではない。すべては、それまで現場で築いた信頼の成果だった。

■苦難乗り越えて続ける“命がけの支援”

もちろん、雇い入れる出所者の全員が社員として定着するわけではない。父に倣って罪を犯した人を積極的に受け入れ続けた輝真さんは、「5%」という独自のデータを得ている。

「長く残る人の割合が、だいたいそれぐらい。95%は逃げちゃいます。仮釈放のためにうちを利用したのかもしれないし、仕事が嫌になったのかもしれないし……。追いかけることはしないけど、向こうから頭を下げてきたらもう1回雇うことはありますね。逃げない社員にも、ある程度の技術を身につけたら転職していいと言ってます。うちで勤まればどこに行ってもやっていけますから、転職先で『北洋建設にいました』って言うように伝えてるんです。もちろん刑務所から出てきたことも隠さず、全部さらけ出した上で世の中に認めてもらえ、って」

社会復帰を願う思いが「5%」しか実らなかったとしても「意義はある」との信念を曲げず、自ら刑務所へ赴いて採用面接を繰り返す日々。身寄りのない受刑者から毎日のように手紙が届き、前科33犯の人も即決で受け入れた。覚醒剤で7度の逮捕歴があった人が在職中に再び薬に手を出した時には、警察に発覚する前に自首させた。社員寮の生活が難しい高齢の社員を自身のマンションに住ませたり、グループホーム入居の手続きをしたこともある。資金繰りが厳しくなっても採用面接は途切れさせず、慰安旅行のために確保した地方の別荘などを処分して事業を続けた。自身は向学心が旺盛で、これまで70種以上の資格・免許を取得している。30歳代半ばで放送大学に入学、再犯防止をテーマに論文をまとめ、高校中退の四半世紀後に修士の学位を取得した。

そこに大きな不幸が襲ったのは、2012年の夏。会話のろれつが回りにくくなったことを自覚して病院を受診すると、頭部のエックス線写真を示しながら医師が告げたという。

「小脳がずいぶん小さくなっています、って。聴いた瞬間『来たか』と思いました」――脊髄小脳変性症。父の政洋さんの病名を覚えていた輝真さんは、それが遺伝性の難病であることも承知していた。根治の手段がないことも知っていた。

意識がはっきりしたまま、運動機能が少しずつ侵されていく。よく知られる筋委縮性側索硬化症(ALS)に似ており、ALSよりも進行は遅いものの、発症年齢は早いことが多い。ほかの病気を併発するリスクも大きいと告げられた。

さらにその3年後、会長に退いた母の跡を継いで社長となった輝真さんは、かけがえのない右腕を喪った。深夜から明け方までの猛特訓で仕事を叩き込んでくれた先輩社員。難病の進行を見据えた輝真さんは、その人に社の将来を託すつもりで専務を任せたばかりだった。
「クリスマスイブの日に、事務所前の雪かきをして『少し休む』って横になって、そのまんま…。43歳でした。参りました。ほんとに参りました」

その日から5年、輝真さんは今も病身を押して小さな会社を切り盛りし、仕事を通じて罪を犯した人たちの社会復帰を支え続けている。受刑者との面接には車椅子が欠かせなくなり、定期的な通院は週2度の往診に変わった。要介護4。身体障害1種1級。医師に宣告された余命、残り2年弱。それでも「動けなくなるまで続ける」と、ウイルス禍の昨年も沖縄、宮崎、福島など全国6カ所の刑務所を訪ね歩き、次々と社員を採用した。
「いやあ、しんどいですよ。病院の先生に一緒に飛行機に乗ってもらうわけにいかないんで、行った先で何か起こったら、それまで。こないだも誤嚥で死にかけましたが、札幌だったので助かりました。最近は保護観察所のほうで事前面接を手伝ってくれるようになり、社員の定着率も上がったんで、まだまだやめるわけにいきませんけど」

一連の取り組みが評価され、東京弁護士会人権賞の受賞が伝えられたのは、昨年10月。例年都内で行なわれる授賞式は自粛が決まったが、この3月には会の役員が札幌を訪れて社内で表彰式を行なってくれることになった。同弁護士会によると、北海道在住者の受賞は初めてという。
「嬉しいですね。これでまた、頑張れる」

社屋にお金をかけても仕方がないという理由で、本社はプレハブ建て。その奥の一室に、『従業員募集』と大書したポスターが掛かる。今やそれが、全国の刑務所に掲出されるようになった。誇らしげにそれに眼をやる社長に、「今年の目標」はない。

「毎年ありません。もう毎日、毎日、精一杯頑張るだけ」――行き場のない出所者がいる限り、命がけの支援は続く。

(小笠原淳)

【小笠原 淳 (おがさわら・じゅん)】
ライター。1968年11月生まれ。99年「札幌タイムス」記者。2005年から月刊誌「北方ジャーナル」を中心に執筆。著書に、地元・北海道警察の未発表不祥事を掘り起こした『見えない不祥事――北海道の警察官は、ひき逃げしてもクビにならない』(リーダーズノート出版)がある。札幌市在住。
北方ジャーナル→こちらから

 

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