週刊文春が、菅義偉首相の長男が絡んだ放送関連会社「東北新社」による総務省幹部への接待疑惑に続き、NTTの役員と同省幹部との間で繰り返されていた接待問題も暴いた。「文春砲」の砲弾が霞が関を飛び越えて永田町にまで届いた形で、歴代総務大臣とNTT幹部との会食に加え、現職の武田良太総務相が他の財界人と会った際にNTTの社長がいたことまですっぱ抜いている。
芸能人の不倫から政治家の「政治とカネ」まで、幅広いネタでスクープを連発する同誌の奮闘ぶりには脱帽するしかないが、その報道姿勢には賛同しかねる部分がある。
■「右へ倣え」の危険性
武田氏は、国会質疑で「国民に疑念を抱かれるような会食、接待に応じたことはない」とする答弁を繰り返し、猛烈な批判に晒されることになった。会食したのかどうかが判然としないもどかしさに、「何か隠している」とみられたせいだ。結局、武田氏が参加した複数の財界人との食事の場にNTTの社長がいたことを文春が報じたため、武田氏への風当たりは一層強くなっている。
確かに、NTTの事業のほとんどを所管する総務省のトップが、利害関係者と飲食を共にしたことへの批判は免れまい。しかし、NTTの社長がいることを知らずに武田氏が会食に顔を出していたとすれば、「国民に疑念を抱かれるような会食ではない」という武田氏の主張は間違いではなかったことになる。
もちろん、NTTの社長がいると分かった瞬間に席を立つという選択肢もあっただろうが、日本の社会ではおそらく「大人気ない」となるはずだ。「ビール2杯でその場を離れた」とする武田氏の言葉通りの状況だったとすれば、それを批判の対象とするには無理がある。
国会や報道で指摘されている「大臣規範」(国務大臣、副大臣及び大臣政務官規範)には、こうある――《関係業者との接触に当たっては、供応接待を受けること、職務に関連して贈物や便宜供与を受けること等であって国民の疑惑を招くような行為をしてはならない》
条文の通りなら、《関係業者との接触に当たっては》という前置きは、関係業者との接触を禁止しているのではなく、“認めた上で”ということ。つまり関係業者と接触するのは構わないが、《供応接待を受け》たり、《職務に関連して贈物や便宜供与を受け》たりといった《国民の疑惑を招くような行為》をするなと言っているに過ぎない。供応接待や便宜供与に「請託」が付随していれば贈収賄に問われるのだから、当然の戒めと言えるだろう。
だが、禁止しているのは「供応接待」と「職務に関連する贈物や現議供与」だけ。「会食」がダメだとはなっていない。もちろん、前述したように「接触」はOK。武田氏の答弁が事実なら、“接待の証拠”がない以上、現在のような批判の集中砲火はすべて的外れということになる。
文春が書いたというだけで、右へならえ的な報道姿勢をとるようになっている大手メディアだが、都合のいい時にだけ持ち出してくる「推定無罪」はどこへ行ったのかと聞きたくもなる。
武田氏を庇うつもりは毛頭ない。あっさり「会食の場で同席しましたよ」と認めておけば、ここまで事態を悪化させることはなかったはずだ。「国民に疑念を抱かれるような会食、接待に応じたことはない」を繰り返したことが、事実の隠蔽ととられた。だが、明確な証拠がないまま武田氏とNTT社長の遭遇を「悪」と決めつけるような文春の報道ぶりには、ある種の「危険性」がつきまとう。“逮捕、即有罪” といわんばかりの記事や番組が、どれだけ冤罪を生んできたことか。
■「会食文化」否定
もう一点、文春が官僚への「接待」と政治家の「会食」を一緒くたにし、何でもかんでも悪いという風潮を作り出したことにも同意しかねる。
意見交換の場として活用されてきたこの国の会食文化を否定するのか、あるいは一定の範囲で容認するのかの問題になるが、記者はビジネスなどの協議や情報交換において、「会食」の有効性は否定できないと考えている。「胸襟を開く」という言葉があるように、飲食を共にすることで参加者が打ち解け、物事がうまく進むケースは少なくないからだ。もちろん、そこが「請託」や「贈収賄」の現場にならないことが、絶対条件であることは言うまでもない。
誤解を恐れずに述べるが、政治家の「政治活動の自由」は担保されるべきで、「会食」や「飲食」が全部だめというのは早計だ。若い世代の人たちと国会議員が、居酒屋で政治について議論するイベントに出くわしたことがあるが、そうした試みは無駄とは言えまい。居酒屋の政治談議はOKだが、高級店での情報交換はダメだと意見もあろうが、それでは公平性を欠く。
料亭政治は悪しき慣習の一つとみられがちだが、「料亭」そのものは日本が世界に誇る食文化の担い手であり、悪党ばかりが集まる場所ではない。政治家が“自腹”を切って政治や経済に関する話をするのであれば、場所が料亭や高級レストランであっても咎められる理由はあるまい。問題になるのは、会食に費やされた“原資”の出所なのだ。そうした意味で、責める材料を欠いた武田氏の会食問題に関する現在までの文春報道は、「売らんかな」の週刊誌らしい大騒ぎとも言える。「売らんかな」の事例の別の例を、直近の文春砲が見せてくれている。
■「醜悪」を伝えた「醜悪」な文春の公告
東京オリンピック・パラリンピック開閉会式の演出チームで統括を務めていた電通の元男性社員が、女性タレント渡辺直美さんへの侮辱的な演出を提案していたことが文春に報じられた。
演出チーム内でしか共有されないはずのLINEの画面が文春に掲載されており、言い逃れのできない状況に――。元電通マンは謝罪した上で、演出チームの統括を辞任した。
他者の容姿をいじってウケを狙おうという発想は、たしかに文春が指摘するように「醜悪」なプランだ。だが、記者は電車の中吊り(下の画像)や新聞の紙面でみた文春の「広告」も、元電通マンの企画と五十歩百歩の「醜悪」なものだとしか思えない。
問題になる事実をストレートに打ち出したつもりだろうが、わざわざ女性タレントのことを「ブタ」と大きく扱う神経は、到底理解できない。ハンターでは、絶対にあり得ない見出しの打ち方だ。
この件については、いずれのメディアも表現に神経を使っており、『容姿を侮辱するような演出』であるとか『不適切な演出』といった表現がほとんど。文春の公告の打ち出し方は、女性タレントに二重の侮辱を与えたようなものだろう。ならば、この記事のどこにも「正義」はない。
週刊誌の記事といえば、派手な見出しに誘われて購読してみたが、中身はなかったというケースが少なくない。それは「売らんかな」がなせる行為。“読者を引き付け、部数が伸びるネタであれば、訴訟沙汰になっても構わない”という週刊誌の本音が透けて見える。NTTと武田氏の会食問題に関する報道がそうであり、侮辱演出問題の記事もまたしかりである。
■「不愉快な告発」
ここ数年、文春は、本来なら新聞やテレビがやらねばならない政治や行政の不正を暴くという大切な仕事を、何度も「スクープ」という形で成し遂げてきた。芸能人の不倫報道でも独走状態だ。だが、そのほとんどは「告発者」の存在があって、成り立ってきたものだろう。意義のある報道があった反面、記事によっては「告発への不快感」を強く感じる場合がある。
東北新社やNTTによる一連の接待・会食問題のうち、NTT絡みの文春報道には、多くの疑問が残った。接待現場でのやり取りはもちろん、出された料理の食材や飲まれたワインの銘柄、金額まで文春に伝わっており、これは異常だ。内部告発が悪いとは言わないが、社内の極秘事項を簡単に商業目的の週刊誌に渡すような会社が、国民多数の個人情報を握っていると思うと、ぞっとする。
NTT関係者によると、接待情報流出の裏には、技術系VS事務系といった社内事情があるという。総務省の中でも、電波行政にかかわる旧郵政の系列が、他の部署から狙われたとの見方もある。つまり、組織内の権力闘争がエスカレートし、週刊誌にネタを売って自己の利益を図ったという構図だ。スッキリとは程遠いドロドロ劇に、救いを見出すことは難しい。五輪の侮辱演出問題については、告発報道の公告の出し方に問題ありだと述べた。
時に、「正義」を気取った不愉快な告発も、ある。
(中願寺純隆)