演説中だった総理大臣経験者が白昼、大勢の聴衆の前で銃撃され殺害されるという憲政史に残る事件が起きた。
銃弾に斃れたのは、歴代最長の総理在任記録を持ち、戦後の国の在り方を大きく変えた安倍晋三氏。テレビ各局やネットメディアは、事件直後から銃撃の瞬間をとらえたショッキングな映像を何度も流し、視聴者を煽り立てている。
そうした中、政党の幹部やコメンテーターが必ず口にするのが「民主主義」という言葉。「民主主義への挑戦」「民主主義を冒涜」「民主主義の否定」――テレビも新聞も、民主主義の大合唱だ。
次に多いのが、暴力によって「言論の自由」が奪われることへの懸念。戦前の軍部や右翼が起こした「2.26事件」や「5.15事件」、「血盟団事件」などを例に挙げて、政党政治が力を失い、戦争へとひた走った時代を想起させる論評が目につく。
“お説ごもっとも”というべきなのだろうが、あえて言う。安倍政治を批判すると袋叩きにされそうな雰囲気は、おかしくないか?”
■「民主主義」と沖縄
「選挙」が、民主主義を支える重要な制度であることは言うまでもない。その選挙で、有権者に直接語りかける機会となる街頭演説の場で起きた惨劇は、まさに民主主義への冒涜であり否定である。
ただ、何人もの政治家が発していた「民主主義への挑戦」という言い方については、犯人にそこまでの意図があったとは思えず、本質的に少しずれていると言わざるを得ない。言葉の選択を間違っているということだ。
何にせよ、政治家もコメンテーターも新聞・テレビも「民主主義」の大合唱。だが、この流れに棹をさそうとは思わない。
沖縄は、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の辺野古(名護市)移設が争点となった2度の県知事選や幾度もあった国政選挙で、移設を推進する政府・与党に対し「NO」を突き付けてきた。移設の是非を問うために実施された2013年の県民投票では、投票総数605,385票(投票率52.48%)のうち、約72%にあたる434,273人もの県民が「移設反対」の意思表示をしている。
沖縄の民意が辺野古移設反対であることは明らかだが、政府はこれを黙殺して移設工事を進めてきた。この流れを作ったのは安倍晋三政権であり、安倍政治を継承した菅義偉、岸田文雄両氏も同様の姿勢だ。
沖縄にだけ民主主義が認められていない状態が現出しているにもかかわらず、本土の大手メディアが「民主主義の危機だ」といって大騒ぎしたことはない。
重ねて言うが、辺野古移設を強行したのは安倍氏だ。その後、繰り返し示された沖縄の意思を、ことごとく無視してきたのも安倍氏である。ならば、沖縄から民主主義を奪ったのは、安倍氏だったということになる。その安部氏が凶弾に斃れたとたん、「民主主義の危機」だと騒ぐこの国のメディアや政治家たち――。言葉の軽さが、政治や報道のレベル低下を物語る。
■民意軽視の安倍政治
安倍政権の民意軽視は、沖縄の件だけに止まらない。特定秘密保護法、安保法制、共謀罪、集団的自衛権の行使容認、武器輸出解禁――。いずれも、安倍政権以前なら一内閣でようやく一つ片付くかどうかの重要課題が、半数以上の国民の声を無視し、強行採決という手法で決められてきた。
安倍政治は、民主主義を蔑ろにすることによって成立する危ういものだったが、元総理の死が「民主主義」という言葉に息を吹き込んだ形となったことは皮肉というしかない。
憲法改正を政治の責任だと明言する政治家が増えたが、それこそ民主主義を軽んじる姿勢の表れだ。周知のとおり、憲法改正を主導してきたのは安倍元総理。8年という長きにわたって憲法改正を訴えてきたが、実現への具体的な道筋は示されていない。主権者である国民から、「憲法を変えるべき」との声が上がらないからだ。
憲法は、国民を縛るものではなく、国家権力の乱用を抑えるための最高法規である。その憲法を、主権者である国民ではなく、国の最高権力者が「変えよう」と言うこと自体が間違いなのである。
憲法99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」として役人や政治家に対する『憲法尊重擁護義務」を定めている。
安倍元総理を殺害した犯人の動機が分かっていない状況で、「民主主義」云々と叫ぶのは早計だ。犯人に政治的な動機が一切なく、宗教団体に家族の幸せを崩された腹いせにその団体と関係が深い安倍元総理を狙ったという供述が事実なら、なおのこと「民主主義」と犯行動機は結び付かない。
■「言論の自由」について
安倍元総理に死をもたらした銃撃事件が、「言論の自由」を封じ込める蛮行だという主張には、確かに一理ある。暴力で相手をねじ伏せる、あるいは黙らせるという手法は、“話し合う”という民主主義の大前提を壊すものだからだ。だからこそ戦後の日本では、「言論の自由」が尊重されてきたのだが、その「言論の自由」を巡って、矛盾する動きが顕在化し始めている。
安倍氏の死後、暴力によって言論の自由が奪われることを危惧する声が上がる一方で、「安倍政治批判は許さない」という雰囲気が広がった。同調圧力である。
右寄りの論客からは、安倍政治を批判してきた人たちや左翼陣営が今日の悲劇をもたらしたなどという主張まで出始めている。逆恨みもここまで来れば滑稽だ。
銃撃事件直後に予想したとおりになっているのが、いわゆるヤジ排除事件を巡る国家賠償請求訴訟で、札幌地裁が下した判決への批判だ。
2019年の参院選期間中、札幌で自民党公認候補の応援演説を行っていた安倍元総理に、「辞めろ」などとヤジを飛ばした複数の市民が警察に強制排除された。
暴力的に排除された市民らは「表現の自由」を主張して国賠訴訟に踏み切ったが、札幌地裁は今年3月、「表現の自由」を「不可欠の基本的人権」とした上で、被告の北海道警察に計88万円の損害賠償を命じる判決を言い渡した。
安倍元総理の銃撃事件を受けて、右寄りのメディアや論客が噛みつくものと考えていたところ、事件の翌日に、さっそく読売新聞が社説でこの判決を例に挙げ、警備強化を主張した。(下が、読売新聞9日朝刊の画面)
見出しは『安倍元首相銃撃 卑劣な凶行に怒り禁じ得ない 要人警護の体制不備は重大だ』。小見出しに『民主主義への挑戦だ』とあり、本文はこう記す。
現場では、奈良県警や警視庁の警護員(SP)らが警備にあたっていた。安倍氏の演説を聞こうと、数百人の聴衆や、報道関係者も詰めかけていた。白昼堂々、衆人環視の中で起きた惨劇は、なぜ防げなかったのか。
2019年の参院選では、首相だった安倍氏にヤジを飛ばした男女が北海道警の警察官に排除された。だが、札幌地裁はこの警備が違法だったとして、今年3月、道に損害賠償を命じている。
要人警護のあり方に検討の余地はあるにしても、容疑者がやすやすと至近距離まで近づいて発砲するまで、何の措置も取らなかったことなど、対応に不備があったのは明らかだ。政府は警備体制の問題点を検証し、発表すべきだ。
この書きぶりでは、「ヤジを飛ばした男女を排除したのは当然だが、あろうことか札幌地裁はこの警備が違法だったとして損害賠償を命じた」としか読めない。「だが」とはそういう意味だ。
右派陣営による「言論封殺容認論」は、別のメディアでも。フジテレビ系のニュースサイト「FNNプライムオンライン」は、フジテレビ上席解説委員の平井文夫氏による『安倍晋三さんを死なせたのは誰だ』と題するコラムを掲載。平井氏は、「警備は甘かったのか」と小見出しを付けた一文の中で、次のようにヤジ排除裁判と銃撃事件を結び付けた。
今回、警視庁のSPや奈良県警による警備が甘かったという批判があるが、3月に札幌地裁で出た判決を思い出した人は多いはずだ。安倍氏の札幌での選挙演説中に「安倍辞めろ」とヤジを飛ばし警官に制止された男女が「政治的表現の自由を奪われた」と訴えて勝訴したのだ。
たとえ明らかに演説妨害に見えるヤジであっても「表現の自由」であるならば、街頭演説における警備というのはやりにくくなるだろう。あの判決以来、現場で警官による職務質問が減っているという話を聞いたことがある。
今回も容疑者がふらふらと近づいてきた時に、なぜ現場の警官が職質しなかったのか不思議だった。もしそういう「空気」があるとしたらこれは極めて危険なことだ。
読売社説や平井解説委員の主張は、まるでヤジ排除裁判の判決が、安倍元総理の死を招いたと言わんばかりの陳腐な内容。しかし、ヤジ排除裁判の判決は、国家権力が「表現の自由」を妨げることを戒めたもので、これは「言論封殺は許さない」とする司法の矜持の表れだ。
一方、安倍元総理の銃撃事件によって、たしかに安倍氏個人の言論は封殺されることになったが、この国の「言論」や「表現の自由」に影を落としたかというと、決してそういう状況にはなっていない。犯行動機が「逆恨み」であることが明らかになれば、一層「言論封殺」への懸念は薄まるだろう。むしろ「極めて危険」なのは、読売社説や平井解説委員のような間違った考えが広がることだ。
ちなみに、札幌の演説会場でヤジを飛ばしたヤジ排除裁判の原告たちは、平井解説委員のコラムにある「ヤジを飛ばし警官に制止された」などという軽微な被害(これでは被害ともいえないが)を被ったのではく、大勢の警官に突然身体を拘束され、暴力的に別の場所に連行されたというのが真相(下の写真)。もちろん、「職質」を受けてからそうなったわけでもない。平井解説員の卑劣な印象操作には、呆れるしかない。
■人の死と政治を絡める手法に反対する
安倍元総理の死を逆手に取って警察権力を強化しようと目論む右派勢力は、控訴審を控えたヤジ排除裁判の方向性を変えようと躍起だ。
同時に、「安倍さんの遺志である憲法改正を急ぐべきだ」という、右派政治家たちの扇動も始まっている。
だが、先述したとおり、憲法は国民の権利を守るための最高法規であって、安倍元総理に捧げるためのものではない。人の死を利用し、自分たちの思いを遂げようとする勢力があるなら、言論をもって徹底的に戦うまでだ。
ある古参ジャーナリストが、安倍銃撃報道一色となった新聞テレビの報道内容について、静かな口調でこう言った。
「民主主義がどうのだとか言論の自由が危ないだとか騒ぐだけの記事なら、勇気がいらない。いま、勇気をもって書くべきことは何か、冷静に考えるのがジャーナリズムだ。安倍さんや安倍政治を美化するのは間違いだ」――同感である。
(中願寺純隆)