太平洋戦争末期にかけて南方の島々で繰り返された「玉砕」。生き延びた人の証言や戦史から見えてくるのは、阿鼻叫喚の地獄絵を生み出した戦闘の実態だ。大人でも耳を塞ぎたくなるようなその戦争譚を、鹿児島市内の中学校が文化祭で演じさせていたことが分かった。
あたかも戦争の悲惨さを訴えるような内容だが、右派の論客がよく使う手法で日本軍を美化しており、子供たちに間違った歴史観を植えつける恐れの強い内容――。演劇の台本を読んだ鹿児島県内の教育関係者からは、「なぜ公立中学校でこんな劇を演じさせたのか」「信じられない。軍国主義者の洗脳教育だ」「台本を認めた学校側の見識を疑う」といった声が上がっている。
■“舞台”は、いじめ隠蔽の伊敷中
鹿児島市内の小・中学校で起きた“いじめ”が学校と市教委によって隠蔽されてきた問題を取材する中、ハンターの読者から演劇の台本が送られてきた。タイトルは「ペリリュ―」。令和元年に、最初にいじめの隠蔽を報じた鹿児島市立伊敷中学校で、2年生が演じたものだった。
台本を書き、子供たちに「玉砕の島」の兵士や島民を演じさせたのは、自身が担任するクラスで起きたいじめを事実上放置したあげく、問題化した後もいじめ被害者の保護者と会おうともしなかった女性教師だ。
台本を送ってきたのはいじめとは関係のない保護者だったが、演劇の内容に強い反発を覚えながら、これまで声に出すことができなかったのだという。その「ペリリュー」の内容とは――。
■ペリリュ―島の玉砕戦
ペリリュ―とは、日本から3,000キロほど離れたパラオ諸島の南端に位置する、13k㎡ほどしかない小さな島だ。太平洋戦争当時、日本海軍が東洋一といわれた飛行場を建設していたことで、戦略的な重要拠点とみた米軍の攻撃目標となった。
1944年(昭和19年)9月に上陸した米軍に対し、硬い珊瑚礁でできた地層を掘削したり、鍾乳洞を利用するなどして洞窟陣地を構築していた日本軍守備隊は、徹底した持久戦を展開。白兵戦を挑むなど2か月半にわたって抵抗し、約1万人の日本軍将兵が島内に屍を晒した。米軍も2,000人近い戦死者を出し、戦傷者は7,000名を超えたとされる。
顧みられることの少なかった玉砕の島に光があたったのは、2015年。この年4月に天皇・皇后両陛下(現在の上皇・上皇后両陛下)が慰霊のためパラオ共和国のペリリュ―島をご訪問されたことで、改めて同島で起きた惨劇が注目を集めていた。その4年後となる令和元年、鹿児島市立伊敷中学の2年生全員に、文化祭で上演する総合劇「ペリリュ―」の台本が配られる。
■日本軍美化、右派論客の主張そのまま
一読してまず浮かんだのは、「公立の中学で、なぜこんな危ない台本が許されたのか」という疑問。どうみても日本の軍部がやったことを正当化し、美化する内容だからだ。台本の記述の中から、気になる部分をを拾ってみた。まずは、冒頭。
翠 :おじいちゃん。何を見てるの。
祖父 :あぁ。翠か。
翠 :砂?どこの砂?きれいな砂ね。
祖父 :あ・・・これか。(砂を見つめる)これはオレンジビーチの砂じゃよ。
翠 :オレンジビーチ?
祖父 :そう。翠はもう13歳になったか。
翠 :うん。
祖父 :そうか。それなら、もうわしの話もわかることだろう。じゃあ、この砂のことを翠にも話そう。ペリリュー島の話を。
翠 :ペリリュー島?
祖父 :緑色に輝く海。海辺に立ち並ぶやしの木。スコールが作った深い森の中には見たこともないほど大きな木と見たことない綺麗な鳥。南太平洋にパラオ諸島南部の小さな島、ペリリュー島。そこは珊瑚礁の海に囲まれ、熱帯の豊かな森に覆われた南の島。小さな楽園じゃよ。
ペリリュ―島の生き残りが、安易に「オレンジビーチの砂じゃよ」などと言うはずがない。同島のオレンジビーチは、米軍が上陸にあたって、海岸線を「ホワイト」「オレンジ」といった色の名称でブロック分けしたことの名残り。日本軍守備隊は、そんなことは知らなかった。
戦後に発刊された書籍などで、「オレンジビーチ」が使われるようになったが、実際の戦闘に参加していた元日本軍兵士にとっては「西浜」が正式名称。当時の西浜には、「レンゲ」「アヤメ」「クロマツ」などといった名称の陣地が構築されていた。
ちなみに、「血でオレンジ色になったからオレンジビーチ」という説をもっともらしく唱える人がいるが、明らかな間違い。この台本の後半にも「青い海は、白い浜辺は、血でオレンジ色に変わった」という記述が出てくるが、おそらく、子供たちや演劇を見た人たちには正しい名称の由来は伝わっていないはずだ。
次に問題だと感じたのは、日本の都合でやったことを、あたかも相手国(あるいは地域)のために“役立った”とする主張が出てくること。戦争責任を否定する右派の論客が用いる手法なのだが、台本にもそれが堂々と書かれている。
祖父 :日本は、シンガポール、マレーシア、インドネシアとか南方の国々を占領した。その一つにパラオ共和国があった。わしは、そのパラオのペリリューにいたのじゃよ。日本は、道路や橋、水道、電気など人々の生活に欠かすことのできないインフラを次々に整備した。そして、学校を建て、病院を建て、農業を教えた。日本の統治でよくなったと言ってくれる人もいた。しかし、あの人たちの大事な島を日本人は戦場にしてしまった・・・あのとき、一生懸命していたことが良かったのかというか、今でもおじいちゃんには分からない・・・。ただ、厳しい訓練の中、島民達との交流は心いやされる時間じゃった。
「日本は、道路や橋、水道、電気など人々の生活に欠かすことのできないインフラを次々に整備した」――このフレーズは、軍事ジャーナリスト井上和彦氏の著書『パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか』からの丸写しらしいが、井上氏といえば極端な右寄り。同氏をはじめ、日本の戦争責任を否定したがる人達が必ずと言っていいほど主張するのが、ここに出てくる「日本は、道路や橋、水道、電気など人々の生活に欠かすことのできないインフラを整備した」という主張だ.「ペリリュ―」の台本を書いた教師の、思想・信条がうかがえる。
“参考にした”というより、ただの受け売りにちがいないと思われるのが、台本の次の部分である。
兵3 :上官!島民たちが中川大佐に話があるそうです。
島3 :僕たちは、この島を愛しています。生まれ育った大事な島です。だから・・・だから・・・私たちも一緒に戦わせてください。
島2 :アメリカをやっつけたいんです。
島4 :私たちも日本軍とともに戦うと決めました。
島1 :村人全員が集まってきめたんです。これは村人達全員の意見です。(中川大佐は島民の一人一人の目をじっとみつめながら黙る)
中川 :とぼけるな!帝国軍人が貴様らと一緒に戦えると思うのか!帰れ! (島民がだまる。兵士に付き添われて洞窟を出る)
・・・略・・・
上官 :あれでは隊長殿の真意は伝わりますまいな。
中川 :うむ。あれでいいんだ。島民を可能な限り助けたい。自分たちが去っても島民の暮らしは続いていくんだ。いつかは必ず、南洋の人々にも平穏な日々が戻ってくるのだから。本島への島民待避準備は完了したのか?
上官 :はい。手配済みです。
子1 :日本軍は島民を激しい戦いの行われる戦場から逃れさせることは自らの当然の義務だと考えていました。
子4 :ここペリリューでも非戦闘員である島民を一人残らず危険から遠ざけることが中川大佐の考えでした。
・・・略・・・
島1 :俺たちだって戦えるのに・・・
島2 :信用してくれないんだな・・・
島5 :日本人じゃないからだろうか。
島4 :日本人たちのそれぞれのふるさとの話、おもしろかったなぁ。
島5 :僕は特に春っていう季節に咲き誇る美しいサクラという花と吹雪のように舞い上がりながらはかなく散っていくっていう話が印象深いんだ・・・兵隊達愛おしそうに話してた。
兵5 :みんな!おぉぉぉぉぉ!(兵隊達叫ぶ)
兵2 :みんな、元気でやれよ!
兵4 :みんな、頑張れよ! (ふるさとハミング)
島2 :日本の兵隊たちだ・・・(兵隊達必死で手を振る)
中川 :みんな、生き抜けよ!負けるなよ!島3 :な、中川大佐!
子3 :中川大佐が力強く手を振る様子を見て、島民達は中川大佐の真意を知るのです。
島1 :大佐が怒鳴ったのは・・・大佐が怒鳴ったのは・・・俺たちを信用してなかったからじゃない。。。俺たちを・・・俺たちを助けるためだったんだ。
島45 :ありがとう・・・ありがとう・・・
日本軍が島民に退避指示を出したのは事実で、のちに何人もの島民が「日本軍のおかげで助かった」と語り残しているという。だが、住民の島外避難は台本のようなお涙頂戴の話ではなく、切迫する戦況のなかで、必然的に起きた出来事だったと考えるべきだろう。
日本軍を美化し、歴史の上っ面だけを捉えた台本の作者はこの後、子供たちに想起させる必要のないおぞましい戦場の光景を、これでもかと書き連ねる。