「黄金の国ジパング伝説」起点は東北の砂金|東北の蝦夷と被差別部落(その7)

ヴェネツィアの商人、マルコ・ポーロが父親と叔父に伴われて東方へと旅立ったのは1271年とされる。生きて帰れるかどうかも定かではない、危険な旅だった。

父親と叔父にとっては2度目、17歳のマルコにとっては初めての長旅である。一行はペルシャから中央アジアのシルクロードを通り、陸路、3年半かけてモンゴル帝国の夏の都、上都(現在の河北省張家口近郊)にたどり着いた。

時の皇帝クビライは、一行の到着をことのほか喜んだ。父親と叔父は最初の旅の際に命じられた通り、ローマ教皇の書簡とキリスト教の聖油を携えていた。書簡はローマへの使節派遣を促す好意的なものだった。息子のマルコの聡明さにも惹きつけられたようだ。3人はクビライの家臣として迎えられ、厚く遇される。

若いマルコはモンゴル語や中国語を習得し、皇帝の使者としてしばしば、帝国内に派遣された。クビライはマルコの報告を好んだという。任務の報告が的確だっただけでなく、「その土地の珍しい事柄や不思議な話を巧みに語ったから」とされる。

クビライはマルコを寵愛し、一行が帰国することをなかなか許さなかったが、モンゴルの姫をイル・ハン国(ペルシャとその周辺が版図)に嫁がせる使節団に加わることを渋々認めた。3人が船団に加わり、海路、インド洋経由で帰国したのは1295年、実に24年後のことだった。

帰国してほどなく、マルコはヴェネツィアとジェノヴァの戦争に巻き込まれ、ジェノヴァの捕虜になった。獄中で、同じように捕虜になった物語作家のルスティケッロと出会う。そこで彼がマルコから聞いた長い旅の物語をまとめたものが『世界の記述』、あるいは『驚異の書』『マルコ・ポーロ旅行記』などと名付けられ、世に知られるに至った。

マルコの旅行記はフランス語やラテン語に次々に翻訳され、写本として広まった。原本は失われ、多種多様な写本が残る。日本では明治時代に『東方見聞録』の書名で紹介され、その呼び方が定着した。

マルコは日本を訪れたことはなかったが、その書には次のような伝聞が記されている。

「ジパングは東方の島で、沿岸から1500マイル離れている。とても大きな島で、人々は色白く美しく礼儀正しい。偶像を崇(あが)め、自分たちの王に統治されている」

「金がものすごく大量にあり、そこに桁外れに見つかり、王が国外に持ち出させない。(中略)ちょうど我々が家あるいは教会を鉛で葺(ふ)くように、すべて金の板で葺かれた大宮殿がある。広間や多くの部屋の天井もすべて分厚い純金の板で、窓もやはり金で飾られている」(高田英樹『世界の記』から引用、イタリア語集成本からの和訳)

ヨーロッパの人々はマルコの書で初めてシルクロードやモンゴル帝国、アジアの国々のことを知り、興奮した。とりわけ、黄金の国ジパングの物語に熱狂した。

時を経て、その熱はジェノヴァ生まれの探検家コロンブスをも巻き込む。コロンブスはスペイン王の支援を得て西回りでジパングを目指し、大西洋のかなたで「未知の大陸」に到達した。

マルコが世に広めた「黄金の国伝説」は、コロンブスを突き動かしてアメリカ大陸へと導き、歴史の歯車を大きく回す結果をもたらしたのである。

◇    ◇

では、その黄金の国伝説はどのようにして生まれたのか。話は、マルコが旅した時代からさらに500年以上さかのぼる。

天平年間(729~749年)、聖武(しょうむ)天皇は藤原一族がらみの激しい政争に加え、天然痘の大流行や旱魃と飢饉、大地震に襲われ、苦しんでいた。天皇は仏教に深く帰依し、仏教にすがって世を立て直そうと試みた。

国家鎮護のため全国に国分寺を建立する詔(みことのり)を出したのに続いて、734年(天平15年)には大仏造立(ぞうりゅう)を宣言した。奈良東大寺の大仏様である。

「私は天皇の位に就いて民を慈しんできたが、仏の恩徳はいまだ天下に行き渡っていない。三宝(仏、法、僧)の力によって天下が安らかになり、生きとし生けるものすべてが栄えることを望む」(『続日本紀』所収の詔、現代語訳は筆者)

詔には、聖武天皇の切なる思いがにじむ。「一本の草、一握りの土でも協力したいという者がいれば、それを許しなさい」との一文を付け加えている。

高さ16メートルもの大仏を造る大事業である。まず木材と土で原型を造り、さらに外型を造って間に溶銅を流し込んで鋳造する。一気にはできないので、下部から順々に鋳造していったと考えられている。

原料の銅や錫は国内にたくさんあった。だが、問題は金だった。銅による鋳造の後、大仏には鍍金(ときん)を施して金ピカにする計画だが、国内の産金はごくわずかで、中国や朝鮮半島から輸入するしかない。当然のことながら、「莫大な代価を払わなければならない」と覚悟していた。

その時である。749年(天平21年)、陸奥(むつ)の国から「大量の砂金が見つかった」との報告が寄せられ、都に黄金900両(13キロ)が届けられた。

聖武天皇の喜びようは尋常ではなかった。「願いが天に届いた」と思ったのではないか。天皇はその年のうちに元号を「天平感宝」と改め、出家して退位してしまった。

武人で歌人でもあった大伴家持は当時、越中の国守だったが、陸奥の産金を知り、産金をことほぐ長歌と次のような反歌を詠んだ。

天皇(すめろき)の 御代栄えむと 東(あづま)なる 陸奥(みちのく)山に 金(くがね)花咲く

万葉集に収められた歌の中で「最北の地を詠んだ歌」とされる。

大仏の開眼供養が営まれたのは752年(天平勝宝4年)である。大仏造立の詔から9年。その後も陸奥からは砂金が次々に届けられ、鍍金と仕上げ作業が続けられた。

日本の元号が漢字4文字で表されたのは、この時期の5代しかない。うち3代に「黄金」を意味する「宝」が使われた。朝廷の喜びがいかに大きかったかを示している。

陸奥で砂金が見つかった時の国守は、百済王(くだらのこにきし)敬福である。その名が示すように朝鮮半島の百済から渡来した王族の末裔で、陸奥に赴任する際に同行した部下にも渡来系の人たちがいたことが知られている。

砂金の発見と採取には特殊なノウハウと技術が求められる。大和朝廷の支配下にはもともとそうした人材はおらず、渡来系の人たちに頼るしかなかったのだろう。

砂金貢納の功績により、百済王敬福は従五位上から7階級特進し、その部下たちも褒賞にあずかった。朝廷にとっては「金の輸入国から輸出国に転じるきっかけを作ってくれた人たち」であった。

これ以降、陸奥では砂金や金鉱脈が相次いで発見される。大陸に渡る使者や僧侶には渡航費用に充てるため、砂金を持たせるようになっていった。

黄金を基盤にして、平泉の藤原一族は栄華を極めた。中尊寺金色堂はその象徴であり、扉も壁も天井も金箔で飾られた。マルコが記した「黄金の国ジパング伝説」はこうしたことを反映したものであり、多少の誇張はあったにせよ、伝説ではなく、事実であった。

◇    ◇

大仏造立時に大量の砂金が見つかったのは、宮城県北東部の涌谷(わくや)町である。砂金の採取地は、町の中心部の北に広がる箟岳(ののだけ)丘陵の沢筋にある。夏の渇水期には水がわずかに流れるだけの小さな沢だ。

周辺で金の鉱脈は見つかっていない。金をわずかに含む地層が隆起して浸食され、その砂金が大雨の時に押し流され、長い年月のうちに堆積したものと考えられている。

砂金が採取された場所には神社と寺が建てられた。聖武天皇は「仏が恵んでくれた金」という宣明と「天地の神々が祝福してくれた金」という宣明を同じ日に出しており、それに基づいて建立されたものだろう。「日本の神仏混淆(こんこう)はここに始まる」との見方もある。

だが、砂金が採れなくなると、神社も寺も忘れ去られた。どこの国でも、金が採れなくなった地域は「ゴーストタウン」と化す運命にある。

いつしか、「天平時代に砂金が採れたのは牡鹿半島沖の金華山」という俗説が流布し、そう信じられるようになっていった。松尾芭蕉も「奥の細道」の旅日誌に、大伴家持が「陸奥山に金花咲く」とうたったのは金華山、と記している。

こうした俗説に異を唱え、『続日本紀』などの史書を丹念に調べて是正したのは、江戸時代後期の伊勢の国学者、沖安海(おき・やすみ)である。

沖は当時の涌谷村の砂金採取地の様子を次のように記している。

「社(やしろ)があると聞いて訪ねたが、松や竹が生い茂り、道もなく荒れ果てていた。地元の人に問うたが、誰も知らない」

それでも、沖はやぶの中から大きな礎石と瓦の破片を見つけた。ここに社があったことを確信し、自ら資金を調達して黄金山神社を再建した。黄金の国伝説の起点となった場所は、一人の国学者によって息を吹き返し、歴史の表舞台に戻ってきたのである。

これ以降、地元の人たちはまた神社を大切にするようになった。昭和から平成にかけて、竹下政権は地域おこしのために市町村に1億円を交付する「ふるさと創生事業」を始めた。

涌谷町は、この事業を足がかりにして黄金山神社の周辺を整備し、神社の入り口に「天平ろまん館」というテーマ館を建てて地域おこしに取り組み始めた。展示資料が充実している。砂金採取の体験もできる施設で人気を集めた。

2019年には、涌谷町や平泉町を含む地域が「黄金の国ジパング 産金はじまりの地」として、文化庁に「日本遺産」に認定された。これで地域おこしに弾みがつくはずだった。

だが、コロナ禍の影響を大きく受け、集客に苦心しているのが実情だ。今はポスト・コロナを見据え、戦略を練り直す時だろう。

シルクロードにあこがれ、大航海時代の冒険に胸躍らせる人は世界中にたくさんいる。マルコ・ポーロとコロンブスにも登場してもらい、海外からもっと人を招き寄せる方策を探ってはどうか。「黄金をめぐる世界のネットワーク」の拠点を目指す道もある。ここは、知恵の絞りどころだろう。

◇    ◇

古代東北の蝦夷(えみし)と畿内の朝廷勢力との関係で考えると、涌谷での砂金の発見は「朝廷が蝦夷討伐に本腰を入れる要因の一つになったのではないか」との推測を生む。

8世紀の前半、東北の情勢は比較的落ち着いていた。朝廷の支配は現在の宮城県の北部まで、それ以北の岩手県や青森県の大部分は蝦夷の勢力圏、という構図で推移していた。

ところが、涌谷で砂金が発見された後、朝廷は桃生(ものう)城の建設(758年)と伊治(これはり)城の建設(767年)に踏み切った。涌谷の砂金採取地は桃生城の近くである。「陸奥にはもっと黄金があるに違いない」と見て、支配を北へ押し広げることを決意したのではないか。

実際、蝦夷と朝廷との「38年戦争」は、蝦夷側による桃生城と伊治城の襲撃から始まり、岩手県の胆沢(いさわ)を拠点とするアテルイ(阿弖流為)らの蝦夷勢力との激突、という形で展開していった。

大陸や朝鮮半島との交易において、黄金は何よりも有力な品となる。その確保は、朝廷にとって最優先課題となった可能性がある(佐渡島で金の採掘が本格化するのは江戸時代以降)。

砂金はしばしば、砂鉄と共に採取される。「朝廷は、砂金に加えて鉄などの鉱物資源の確保を目指したのではないか」という見方もある。これは、「蝦夷の刀」とされる蕨手(わらびて)刀の鍛造や伝播とも関わってくる。

古代の東北をめぐっては、解明されなければならない課題がまだ山のようにある。私たちの探求の旅は始まったばかり、と言えるのではないか。

(長岡 昇 : NPO「ブナの森」代表)

長岡 昇(ながおか のぼる)
山形県の地域おこしNPO「ブナの森」代表。市民オンブズマン山形県会議会員。朝日新聞記者として30年余り、主にアジアを取材した。論説委員を務めた後、2009年に早期退職して山形に帰郷、民間人校長として働く。2013年から3年間、山形大学プロジェクト教授。1953年生まれ、山形県朝日町在住。

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【参考文献】
◎『マルコ・ポーロ ルスティケッロ・ダ・ピーサ 世界の記 「東方見聞録」対校訳』(高田英樹、名古屋大学出版会)
◎『東方見聞録』(マルコ・ポーロ、愛宕(おたぎ)松男訳、平凡社・東洋文庫)
◎『奈良の大仏 世界最大の鋳造仏』(香取忠彦、イラスト・穂積和夫、草思社)
◎『東大寺大仏の研究 解説篇』(前田泰次、松山鐵夫、平川晋吾、西大由、戸津圭之介、岩波書店)
◎『日本の金』(彌永(やなが)芳子、東海大学出版会)
◎『天平産金物語』(宮城県涌谷町教育委員会)
◎『天平の産金地、宮城県箟岳(ののだけ)丘陵の砂金と地質の研究史』(鈴木舜一、地質学雑誌第116巻第6号)
◎『陸奥産金と家持』(福山宗志、『官人(つかさびと) 大伴家持』所収)
◎『日本鉱山史の研究』(小葉田(こばた)淳、岩波書店)

 

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